なぜ何の疑問も持たずにサラリーマンになるのか?独断と偏見による考察

「なぜ何の疑問も持たずにサラリーマンになるのか?」

筆者自身にこのような疑問が生まれたのは、ここ最近のことではありません。

学生の時分から、いや、もっと言うと物心がつき始めた辺りから、既にこういった思考に囚われるようになったと言っても過言ではありません。

人生というものの距離を意識し始めた頃から、その大部分を占めるであろう“仕事”というものに対しての疑問というのは湧いて留まることはありません。

今回はそんな思考の一端を、独断と偏見にまみれた考察という形式に沿って語っていきたいと思います。

実体のない不信感

筆者自身は決して政財界の御曹司でも権威ある医師団の跡取りでもありませんので、長きにわたる人生を不自由なく生き抜くためには働くことは必須の課題でした。

「社会に出て会社に尽くす」ということを最も明確に意識したのは、やはり学生時代の進路決定です。

幸か不幸か情報社会というもののおかげで、その頃になるともはや“会社”や“仕事”に対する不信感はピークに達していて、自身がこれから踏み入るであろう現状を、どうしてもすんなりとは受け入れることが出来なかった記憶があります。

しかし周りの同級生を見てみると、意外にも会社に帰属するということに前向きに向き合っており、存外面食らったのを覚えています。

そして同時に得も言われぬ嫌悪感に襲われたことも、深く印象に残っています。

固定されたレール

とはいえ、親の扶養も抜けていない筆者自身が大勢に逆行するだけの力を持ち合わせているはずもなく、実際にそれらの沼に足を踏み入れたのは不可抗力と言わざるを得ません。

最も、この頃ははまだ知識も経験も0に等しく、社会の理不尽にあらがう術を、その存在ごと認知していなかったので、当然の成り行きだと言えるでしょう。

ただそんな現状に飲み込まれながらも、純粋に「働く」ということに対する疑問と、得体のしれない嫌悪感というものは沸々とその身に残っていました。

そして、それらの負の感情が、一気に増幅し、ある種自分の中で決定的なものになったのは、社会に飲み込まれて自我を喪失したとも形容できる先達の姿を、事実その目に確認したことによります。

社会に出て消耗した末路

皆さんも仕事という環境において、心身ともに消耗しきった人間というものを目の当たりにしたことがあるかと思います。

自分自身が社会の歯車になっているということに、知ってか知らずか甘んじている。

そんな人間が吐くセリフといえば「誰かが働かなきゃ社会が回らない」「みんな必死で働いてるんだからつべこべ言わずに働け」といったような、自身を前面肯定してくれる定型句です。

それはそうですよね。だって自らが存在を肯定してあげなきゃ自我のよりどころが崩壊してしまいますから。

何もない空っぽの自分の存在に、間違っても気づいてしまわないように、必死で自分を騙している。そんな哀れな人間の姿を、筆者自身数多く確認してきました。

仕事人間の抱える矛盾

そこで彼らの意見にほだされることもなく、仕事というものの本質を見失わずに居られたのは、やはり彼らの考えや行動に、大きな矛盾が生じていたからです。

社会がどうとか、会社の在り方とか、仕事の意味なんて言うのは、結局大勢や時流によって形成されたパブリックイメージでしかありません。

権力者が体よく民衆をロボット化するために作り出した教則本に、わざわざ則ってやる必要はないのです。

にもかかわらず、ここまで異質な労働スタイルが絶対的なフォーマットとして浸透しているのは、日本人の集団意識の賜物だと言えるでしょう。

「会社に勤めて当たり前」「定年まで働くのが当然」といったプロパガンダを、まるで自身の考えかのように語るその口ぶりには、奇妙さを感じ得て当然だと言えるでしょう。

なぜ何の疑問も持たずにサラリーマンになるのか?

しかしながら、なぜこうもこのような虚構のイデオロギーを大多数の人間が盲信しているのか。

日本人特有の村八分精神や、封建主義よろしく保守的な気質というのも大きく関係しているでしょうが、筆者のように、これらに疑問を持つ層も、一定数は確かに存在しているはずです。

こと若い世代に関しては顕著に見られます。

では、それらとの違いは一体何なのか。

それは、やはり自身の頭で考えようとしているか否かということに尽きると思います。

社会や会社の在り方に何の疑問も抱いていないというのは、思考停止していると結論付けざるを得ません。

このネット社会において、ひいては日本という民主主義国家において情報の隔たりという言い訳は通用しないのです。

つまるところ当人に内省する意思があるか否かです。

物事の本質を見ようとしない大衆

考えることを放棄して現状の打開策を探ろうともしない、あるいは物理的にタスク処理が追い付かず思考の余地が生まれないということが根本的な原因だということがお分かりいただけたでしょうか。

また、これは筆者の完全な偏見ですが、一般的に「リア充」と呼ばれている類の人間の方が、そういった本質的な問題に対して関心が薄く、物事の悲観的な側面に対して理解を深めようとしない傾向にあるように思えます。

むしろ“臭い物に蓋をする”ではないですけど、そういったネガティブな事象に意識的に触れないようにしているように見受けられるのです。

これがいわゆる“陰キャ”あるいは社会的に地位の低い、虐げられる側の人間であれば、現状に対する不満や鬱憤から、本質的な闇に惹きつけられるのではないでしょうか。

知らない方が幸せだという異常性

社会や会社の内包する理不尽や本質的な搾取構造がまるで存在しないかのような振る舞い、そしてそれこそが正義であり、幸せな人生を送るために見て見ぬふりをすべき必要悪だという風潮。

筆者が長年感じていた嫌悪感の正体は、これだったのかもしれません。

現在それらの不条理とは、一定の距離を置くことに成功してはいますが、現在でもそういった本質的な闇に気づこうともしない人間を目の当たりにする場面はままあります。

職場で意気揚々と“働く”という隷属的行為に励む人間を見ると、本当にこの人は心の底から仕事というものにポジティブに向き合っているのか、はたまた本心ではそれらの現実に対して憤りを感じているのか、甚だ疑問に思います。

残念ながら筆者の関知するところではないですが。

自己の確立と結論

少なくとも、勝手な願望をいうと後者であってほしいと切に思います。

そうでなければ、それは筆者にとってどうしても理解しがたく気持ちの悪い思想だと定義づけざるを得ないからです。

一見される純粋さの裏に、まるでカルト宗教染みた狂気さを感じるのは、私自身が社会不適合者であることの証明に他ならないのでしょうか?

今のところどちらが正しいとは断言できませんが、これからも自分が納得できる方に身を置いていくことに変わりはないと思います。

今回改めて内省し、自分の考え方や立ち位置を一義的なものにできたことは、個人的に大変有益なことでした。

客観的に見ても、今回の記事が“働く”ということを考えるきっかけになる、有意義なものになっていることを願っています。

長々とお付き合い頂きありがとうございました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました