
こんにちは、ヒミコ(@himiko_25)です!
筆者自身にこのような疑問が生まれたのは、ここ最近のことではありません。
人生というものの距離を意識し始めた頃から、その大部分を占めるであろう“仕事”というものに対しての疑問というのは湧いて留まることはありません。
実体のない不信感
筆者自身は決して政財界の御曹司でも権威ある医師団の跡取りでもありませんので、長きにわたる人生を不自由なく生き抜くためには働くことは必須の課題でした。
幸か不幸か情報社会というもののおかげで、その頃になるともはや“会社”や“仕事”に対する不信感はピークに達していて、自身がこれから踏み入るであろう現状を、どうしてもすんなりとは受け入れることが出来なかった記憶があります。
そして同時に得も言われぬ嫌悪感に襲われたことも、深く印象に残っています。
固定されたレール
とはいえ、親の扶養も抜けていない筆者自身が大勢に逆行するだけの力を持ち合わせているはずもなく、実際にそれらの沼に足を踏み入れたのは不可抗力と言わざるを得ません。
ただそんな現状に飲み込まれながらも、純粋に「働く」ということに対する疑問と、得体のしれない嫌悪感というものは沸々とその身に残っていました。
社会に出て消耗した末路
皆さんも仕事という環境において、心身ともに消耗しきった人間というものを目の当たりにしたことがあるかと思います。
そんな人間が吐くセリフといえば「誰かが働かなきゃ社会が回らない」「みんな必死で働いてるんだからつべこべ言わずに働け」といったような、自身を前面肯定してくれる定型句です。
それはそうですよね。だって自らが存在を肯定してあげなきゃ自我のよりどころが崩壊してしまいますから。
そんな哀れな人間の姿を、筆者自身数多く確認してきました。
仕事人間の抱える矛盾
そこで彼らの意見にほだされることもなく、仕事というものの本質を見失わずに居られたのは、やはり彼らの考えや行動に、大きな矛盾が生じていたからです。
権力者が体よく民衆をロボット化するために作り出した教則本に、わざわざ則ってやる必要はないのです。
なぜ何の疑問も持たずにサラリーマンになるのか?
しかしながら、なぜこうもこのような虚構のイデオロギーを大多数の人間が盲信しているのか。
こと若い世代に関しては顕著に見られます。
では、それらとの違いは一体何なのか。
それは、やはり自身の頭で考えようとしているか否かということに尽きると思います。
つまるところ当人に内省する意思があるか否かです。
物事の本質を見ようとしない大衆
考えることを放棄して現状の打開策を探ろうともしない、あるいは物理的にタスク処理が追い付かず思考の余地が生まれないということが根本的な原因だということがお分かりいただけたでしょうか。
むしろ“臭い物に蓋をする”ではないですけど、そういったネガティブな事象に意識的に触れないようにしているように見受けられるのです。
知らない方が幸せだという異常性
筆者が長年感じていた嫌悪感の正体は、これだったのかもしれません。
―残念ながら筆者の関知するところではないですが。
自己の確立と結論
少なくとも、勝手な願望をいうと後者であってほしいと切に思います。
一見される純粋さの裏に、まるでカルト宗教染みた狂気さを感じるのは、私自身が社会不適合者であることの証明に他ならないのでしょうか?
―今回改めて内省し、自分の考え方や立ち位置を一義的なものにできたことは、個人的に大変有益なことでした。
長々とお付き合い頂きありがとうございました。
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